NHKに問いたい。
公共放送の常識とは何なのか?
NHKが意を決し(?)、テレビの歌番組で森山直太朗さんの新曲「生きていることが辛いなら」を初めてフルコーラス(約4分半)で放送することが話題になっています。
「生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが
3日経てば元通り……」
そもそもこの曲は、上に引用した歌詞の過激さがとりざたされて、不特定多数が出入りするコンビニエンスストアでは店内放送が禁止になったイワクツキの曲です。とはいうものの、CDは販売されているわけですし、インターネット配信でも、なんら制限を受けることもなくフルコーラスを聞くことができます。
だから、「歌にいい印象を持っていない視聴者がいることは理解しているが、世に問うべき曲だと思っているし、最後まで通して聞いてみてください」と、NHKの担当プロデューサーが、大上段に構えて紹介するほどのものではないと思いますが……。言い換えれば、「天下のNHKが放送することに意義があるんだ!」という驕りにしかとれません。あるいは話題性で視聴率を稼ぐ手段なのかも……。
しかしながら、途中でスイッチを切るのも、チャンネルを変えるのも、すべて視聴者に委ねられているのですから、最後まで聞いてもらえるかどうかの保証はまったくありません。NHKが取り上げなくても、この曲に耳を傾ける人はいるでしょうし、聞きたくない人は聞かないまでです。
この曲の評価については賛否両論あるようですが、議論に参加しているのは、たぶん死んでしまいたいと思うほどの(大切な子どもや恋人に先立たれるほどの)、深い悲しみや苦しさを経験している人ではないでしょう。曲の趣旨は、死を逆説的に表現して、生きることへの意義を強く訴えているようです。でも、果たしてこの曲で本当に悲嘆のどん底にいる人を救えるでしょうか。最初のフレーズのインパクトがあまりにも強烈なので、最後まで聞いても、「死ぬのをやめて、開き直って強く生きよう」という気持ちになれるかどうか定かではありません。
私自身はこの曲についてどのように考えているのかというと、芸術性についてとやかく言うつもりはありませんし、メロディラインのきれいな曲だとは思います。しかし、やはり歌詞にはいささか疑問を感じています。問題になった部分についても、まともな親なら子どもに先立たれて3日で立ち直れる人などいないでしょう。お子さんを亡くして絶望の淵に沈んでいる方に対しては、非常に失礼ですし、無責任な言葉だと思います。
そのあとに続く「気が付きゃみんな年取って 同じところに逝くのだから」というフレーズも、年老いた方が諦めの境地で言いそうなことです。若い人がこんな気持ちでいたら、日本はますますだめになってしまうでしょうね。
以前、歌謡番組のアナウンスで「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉をよく耳にしました。歌がその時代の世相を反映し、世の中に多少なりとも影響を与えることは確かだと思います。何回も何回も同じ曲を耳にしているうちに、知らず知らずに歌のフレーズが耳の奥に、そして心に浸透し、聞いた人の行動に無意識に働きかけていることがあります。人によって心に残るフレーズはまちまちです。だから怖いのです。万人が曲の意図する前向きなイメージを心に刻むとは限らないことを、負のイメージを強く刻み付ける人が少なからずいることを、絶対に忘れないでほしいと思います。森山さん本人もコンビニの措置について聞かれ、「すごくいい判断なんじゃないかとは思いました。100人聞いて99人がいいと言ってくれても、1人がネガティブな受け取り方をしてしまうのは、望んでいない」とコメントしたとのこと。これはアーティストとして、実に率直で天晴れな意見だと思いました。
それに対し、負のリスクをぬぐいされない状態でも、あえて放送しようとするNHKは、公共放送としての常識を持ち合わせているのでしょうか。
だから、「歌にいい印象を持っていない視聴者がいることは理解しているが、世に問うべき曲だと思っているし、最後まで通して聞いてみてください」と、NHKの担当プロデューサーが、大上段に構えて紹介するほどのものではないと思いますが……。言い換えれば、「天下のNHKが放送することに意義があるんだ!」という驕りにしかとれません。あるいは話題性で視聴率を稼ぐ手段なのかも……。
しかしながら、途中でスイッチを切るのも、チャンネルを変えるのも、すべて視聴者に委ねられているのですから、最後まで聞いてもらえるかどうかの保証はまったくありません。NHKが取り上げなくても、この曲に耳を傾ける人はいるでしょうし、聞きたくない人は聞かないまでです。
この曲の評価については賛否両論あるようですが、議論に参加しているのは、たぶん死んでしまいたいと思うほどの(大切な子どもや恋人に先立たれるほどの)、深い悲しみや苦しさを経験している人ではないでしょう。曲の趣旨は、死を逆説的に表現して、生きることへの意義を強く訴えているようです。でも、果たしてこの曲で本当に悲嘆のどん底にいる人を救えるでしょうか。最初のフレーズのインパクトがあまりにも強烈なので、最後まで聞いても、「死ぬのをやめて、開き直って強く生きよう」という気持ちになれるかどうか定かではありません。
私自身はこの曲についてどのように考えているのかというと、芸術性についてとやかく言うつもりはありませんし、メロディラインのきれいな曲だとは思います。しかし、やはり歌詞にはいささか疑問を感じています。問題になった部分についても、まともな親なら子どもに先立たれて3日で立ち直れる人などいないでしょう。お子さんを亡くして絶望の淵に沈んでいる方に対しては、非常に失礼ですし、無責任な言葉だと思います。
そのあとに続く「気が付きゃみんな年取って 同じところに逝くのだから」というフレーズも、年老いた方が諦めの境地で言いそうなことです。若い人がこんな気持ちでいたら、日本はますますだめになってしまうでしょうね。
以前、歌謡番組のアナウンスで「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉をよく耳にしました。歌がその時代の世相を反映し、世の中に多少なりとも影響を与えることは確かだと思います。何回も何回も同じ曲を耳にしているうちに、知らず知らずに歌のフレーズが耳の奥に、そして心に浸透し、聞いた人の行動に無意識に働きかけていることがあります。人によって心に残るフレーズはまちまちです。だから怖いのです。万人が曲の意図する前向きなイメージを心に刻むとは限らないことを、負のイメージを強く刻み付ける人が少なからずいることを、絶対に忘れないでほしいと思います。森山さん本人もコンビニの措置について聞かれ、「すごくいい判断なんじゃないかとは思いました。100人聞いて99人がいいと言ってくれても、1人がネガティブな受け取り方をしてしまうのは、望んでいない」とコメントしたとのこと。これはアーティストとして、実に率直で天晴れな意見だと思いました。
それに対し、負のリスクをぬぐいされない状態でも、あえて放送しようとするNHKは、公共放送としての常識を持ち合わせているのでしょうか。
(L)
げんこつでは何も解決できない!
2008年6月19日付けの読売新聞朝刊に次のような記事が掲載されました。以下に引用させていただきます。
――宮崎県の東国原英夫知事は18日、学校教育の場や地域での子どもとの接し方について、「『愛のムチ条例』や、『愛げんこつ条例』ができないか。検討に値するかもしれない」と発言した。
この日の県議会一般質問で、自民党県議が「昔は隣近所の年配の方からもよく指導され、げんこつをもらった。今は体の五感を使って学ぶ体験が少なすぎる」などと県教育長の意見をただした。閉会後、報道陣が最も印象に残る質問を尋ねたところ、知事はこのやり取りを挙げ、「『愛のムチ条例』『愛のげんこつ条例』ってのができないのかな」と話した。
「殴っても罰せられない条例ということか」と報道陣が確認すると、「愛をもって、愛のムチであるという範囲内で、宮崎県で条例化できないかと思う」と答えた。――
■教育は対等に向き合って話し合うことから始まる
私はボクシングジムの一コーチにすぎませんが、これを読んで矢も盾もたまらず、自分の考えを述べさせていただくことにしました。
東国原知事の発言は、部分的にでもあれ、体罰を肯定し、暴力を正当化する発言だと思います。私は断固としてこの意見に反対します。
私は、子どもと向き合うとき、面倒がらずにとことん話し合うことを信条としています。何か問題や意見の食い違いがあったとき、高飛車にこちらの考えを押しつけるのではなく、きちんと向き合い、屁理屈としか思えない言い分にも耳を傾けます。言葉を尽くしてもわからないことは、殴ったってわかるわけがありません(東国原知事は、殴ってわからなければ、次にどんな手段をとるというのでしょう)。仮に屁理屈であっても、それに応戦するには、それなりに勉強して知識をストックしておかなければなりません。高をくくれば足元をすくわれます。これも真剣勝負です。当ジムの会員たちには、たとえ激しい舌戦を交えることがあったとしても、練習や試合以外で、一生、他人を殴ってほしくはありません。
これまで殴られ続けたために、少々頭のどこかが怪しくなっている一介のボクシングコーチがこんなことをいうのもおこがましいのですが、要するに教育においては、たとえどのような場合でも、暴力ではなく、徹底した話し合いで子どもを導くことが鉄則だと思います。その上で、世の中の大人たちに心からお願いしたい。
「殴らなくても子どもたちがいうことをきいてくれる威厳のある大人になってほしい。そして、子どもたちがいつでも腹を割って話せるような、本当に尊敬できる寛大な大人になってほしい」と。
東国原知事の発言は、部分的にでもあれ、体罰を肯定し、暴力を正当化する発言だと思います。私は断固としてこの意見に反対します。
私は、子どもと向き合うとき、面倒がらずにとことん話し合うことを信条としています。何か問題や意見の食い違いがあったとき、高飛車にこちらの考えを押しつけるのではなく、きちんと向き合い、屁理屈としか思えない言い分にも耳を傾けます。言葉を尽くしてもわからないことは、殴ったってわかるわけがありません(東国原知事は、殴ってわからなければ、次にどんな手段をとるというのでしょう)。仮に屁理屈であっても、それに応戦するには、それなりに勉強して知識をストックしておかなければなりません。高をくくれば足元をすくわれます。これも真剣勝負です。当ジムの会員たちには、たとえ激しい舌戦を交えることがあったとしても、練習や試合以外で、一生、他人を殴ってほしくはありません。
これまで殴られ続けたために、少々頭のどこかが怪しくなっている一介のボクシングコーチがこんなことをいうのもおこがましいのですが、要するに教育においては、たとえどのような場合でも、暴力ではなく、徹底した話し合いで子どもを導くことが鉄則だと思います。その上で、世の中の大人たちに心からお願いしたい。
「殴らなくても子どもたちがいうことをきいてくれる威厳のある大人になってほしい。そして、子どもたちがいつでも腹を割って話せるような、本当に尊敬できる寛大な大人になってほしい」と。
■愛のムチの範囲とは?
私はその時代に生まれていないので確かなことは言えませんが、昔は大人に対し、子どもたちは今よりもはるかに強い畏敬の念を抱いていたように思います。学校や家庭において子どもたちに鉄拳がふるわれたことがあったかもしれませんが、そういう下地があったからこそ、「げんこつ」の効果がある程度成り立っていたのかもしれません。しかし、どうして自分が叱られるのかを本当に理解していなければ、何の解決にもなりません。
ましてや、条例だけを作ればことが済むという考え方は、本当に甘いと思います。まさに「仏作って魂入れず」になりかねません。
東国原知事は「児童虐待」が大きな社会問題になっていることをご存じないのでしょうか。「愛のムチ条例」や「愛げんこつ条例」ができたら、虐待する親たちの立場を擁護する形になるでしょう。どこまでが愛のムチ(げんこつ)で、どこからが暴力なのかを、虐待する親たちが冷静に線引きすることができるのか、本当に疑問です。また、今、大人が暴力に訴えれば、子どもたちはそれ以上に過激な方法で立ち向かってくる可能性もあるのでは……。
最後に、東国原知事にお願いがあります。どうか今回のような短絡的で不用意な発言はやめてください。知事の一言が社会的に大きな影響力があることを十分に考慮した上で、コメントを出していただきたいと思います。
ましてや、条例だけを作ればことが済むという考え方は、本当に甘いと思います。まさに「仏作って魂入れず」になりかねません。
東国原知事は「児童虐待」が大きな社会問題になっていることをご存じないのでしょうか。「愛のムチ条例」や「愛げんこつ条例」ができたら、虐待する親たちの立場を擁護する形になるでしょう。どこまでが愛のムチ(げんこつ)で、どこからが暴力なのかを、虐待する親たちが冷静に線引きすることができるのか、本当に疑問です。また、今、大人が暴力に訴えれば、子どもたちはそれ以上に過激な方法で立ち向かってくる可能性もあるのでは……。
最後に、東国原知事にお願いがあります。どうか今回のような短絡的で不用意な発言はやめてください。知事の一言が社会的に大きな影響力があることを十分に考慮した上で、コメントを出していただきたいと思います。
(L)



